水俣市出身だった!『國民新聞』主宰、徳富蘇峰氏!

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大正デモクラシー時代

大正2年(1913年)1月の第一次護憲運動のさなか桂太郎の立憲同志会創立趣旨草案を執筆している。 『國民新聞』は大正政変に際しても第3次桂内閣を支持したため、「桂の御用新聞」と見なされて再び襲撃を受けた。『蘇峰日誌』などによれば、このとき、国民新聞社社員は活字用の溶解した鉛まで投げて群衆に抵抗し、社員のなかの1名はピストルを発射、それにより少なくとも死者1名、重傷者2名、日本刀による応戦で負傷者多数が生じている。

蘇峰は、同年10月の桂の死を契機に政界を離れ、以降は「文章報国」を標榜して時事評論に健筆をふるった。大正3年(1914年)の父・一敬の死後は『時務一家言』『大正の青年と帝国の前途』を出版して『将来之日本』以来の言論人に立ち返ることを約した。

第一次世界大戦の さなかに書かれた『大正の青年と帝国の前途』のなかで蘇峰は、特徴的な「大正の青年」について、模範青年、成功青年、煩悶青年、耽溺青年、無色青年の5類 型を掲げて論評しており、「金持ち三代目の若旦那」のようなものだと言っている。日清・日露の両戦争に勝利した日本は独立そのものを心配しなくてはならな いような状況 は見あたらないから、彼らに創業者(維新の青年)のようにあれと求めても無理であり、彼らが「呑気至極」なのもやむを得ない、と述べたうえで、むしろ国際競争のなかで青年を呑気たらしめている国家のあり方、無意識的に惰性で運行しているかのような国家のあり方が問題なのであり、国家は意識的に国是を定めるべきだと主張した。

平民宰相

大正4年(1915年)11月、第2次大隈内閣は異例の新聞人叙勲をおこなっている。蘇峰は、このとき黒岩涙香・村山龍平・本山彦一らとともに勲三等を受章した。なお、蘇峰の『國民新聞』は立憲政友会に対しては批判的な記事を掲載することが多く、それは第1次西園寺内閣時代の明治39年(1906年)にさかのぼるが、「平民宰相」となった原敬が最も警戒すべき新聞として敵視していたのが『國民新聞』であった。二個師団増設問題の解決をめぐって互いに接近したこともあったが、大正7年(1918年)の原内閣成立後も、原は『國民新聞』に対する警戒を解かなかった。

ジャーナリスト
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山王草堂

大正7年(1918年)5月、蘇峰は「修史述懐」を著述して年来持ちつづけた修史の意欲を公表した。同年7月、55歳となった蘇峰は『近世日本国民史』の執筆に取りかかって『國民新聞』にこれを発表、8月には京城日報社監督を辞任した。『近世日本国民史』は、日本の正しい歴史を書き残しておきたいという一念から始まった蘇峰のライフワークであり、当初は明治初年以降の歴史について記す予定であったが、明治を知るには幕末、幕末を知るには江戸時代が記されなければならないとして、結局、織田信長の時代以降の歴史を著したものであった。『近世日本国民史』は、東京の大森(現大田区)に建てられた「山王草堂」と名づけた居宅で執筆された。山王草堂には、隣接して自ら収集した和漢の書籍10万冊を保管した「成簀堂(せいきどう)文庫」という鉄筋コンクリート造、地上3階、地下2階の書庫が建てられた。

大正12年(1923年)には10巻を発表した段階で『近世日本国民史』の業績が認められ、帝国学士院の恩賜賞を受賞した。 この年は9月1日に関東大震災が起こっているが、その日神奈川県逗子にいた蘇峰は、周囲が津波に襲われるなか、庭先で『近世日本国民史』の執筆をおこなっている。

大正14年(1925年)6月、蘇峰は帝国学士院会員に推挙され、その任に就いた。また、同年、皇室思想の普及などを目的とする施設「青山会館」が、蘇峰の寄付によって東京・青山に完成している。

ジャーナリスト・評論家としての蘇峰は、大正デモクラシーの隆盛に対し、外に「帝国主義」、内に「平民主義」、両者を統合する「皇室中心主義」を唱え、また、国民皆兵主義の基盤として普通選挙制実現を肯定的にとらえている。昭和2年(1927年)、弟の蘆花が死去。昭和3年(1928年)には蘇峰の「文章報国40年祝賀会」が青山会館で開催されている。

帝国学士院会員としては、昭和2年(1927年)5月に「維新史考察の前提」、同3年(1928年)1月に「神皇正統記の一節に就て」、同6年(1931年)10月には「歴史上より見たる肥後及び其の人物」のそれぞれについて進講している。

なお、関東大震災後に国民新聞社の資本参加を求めた根津嘉一郎が副社長として腹心の河西豊太郎をすえると根津・河西とのあいだに確執が深まり、昭和4年(1929年)、蘇峰は自ら創立した国民新聞社を退社した。その後は、本山彦一の引きで大阪毎日新聞社・東京日日新聞社に社賓として迎えられ、『近世日本国民史』連載の場を両紙に移している。

一片の丹心渾べて吾を忘る
三国干渉